阿麻和利が貿易大国を夢見た勝連城!大河ドラマの舞台に!
琉球王国のグスク及び関連遺産群を構成する9つの遺跡のうち、グスク(城)は5カ所。その中で最も地域に慕われているのは勝連城ではないでしょうか。沖縄県うるま市の勝連半島に位置する勝連城跡。地域の人々に愛されるそのワケとは。
沖縄の本土復帰50周年の節目となる2022年NHK大河ドラマの実現に向けて動き出した「肝高の阿麻和利」推進プロジェクト!勝連城の歴史と最後の城主、阿麻和利(あまわり)に迫ります。
世界遺産にも登録されている勝連城跡とは?
世界遺産:勝連城跡
うるま市の勝連城跡。600~900年以上前に王府からは遠く離れた一地域の按司が築いたグスク(城)とは思えないほど精悍な姿をしています。
沖縄のグスク(城)の特徴の一つは曲線で造られた城壁。よほどの築城技術が必要であったことでしょう。
うるま市の小高い丘の上にそびえ立つ勝連城。
勝連城が位置するのは、沖縄県うるま市の勝連南風原にある標高100mの小高い丘の上、眼下に中城湾港を見下ろします。
世界遺産に登録されたグスク(城)の中では、最古のグスクと言われていますが、正面から見ても雄大な佇まいです。まだまだ復元中で城壁の石垣だけでも半分も完成していません。この画像の手前(東側)にも城壁は続きます。
高くそびえ立ち、曲線の多い勝連城跡。この構造は城壁の上から城下に迫る敵を攻撃しやすいと言ったメリットもあるそうですが、遊びが過ぎやしませんか(笑)
ところで勝連城が出来たのはいつごろでしょうか。次は勝連城の歴史をさぐってみましょう。
勝連城の歴史
勝連城が出来たのは、12世紀~13世紀ごろ、日本の平安時代にあたります。
沖縄には沖縄全土を統一した第一尚氏王統以前にも、浦添城や首里城を拠点とする中山(本島中部地域)に、舜天王統、英祖王統、察度王統が存在していました。
勝連城は歴代の王統の中の英祖王統第2代国王、大成王の5男によって築城されたと伝えられています。しかし初代から8代目までは名前も分かっていません。
そして9代目城主、茂知附按司(もちづき・あじ)から歴史が動き出します。悪政を強いていた茂知附按司を倒し、10代目の城主となった家臣の阿麻和利。
日本や東アジアとの交易によって勝連の地に富と独自の繁栄をもたらします。
しかし地方按司(あじ:領主)の急速な勢いに脅威を感じた琉球王府の様々な策略によって1458年に最後の城主、阿麻和利は討たれ勝連城は落城。
古琉球からの古城は、国王に最後まで抵抗した城でもあり、沖縄の三山(中山王国・南山王国・北山王国)に勝連王国を加えて4山にしてもいいのでないかと思えるくらい強力な軍備と富を備えていました。
まだまだ勝連城の復元は続く
勝連城跡は1972年、沖縄の本土復帰の即日、日本の史跡に指定され、2000年11月には首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録れました。
現在は、往年の姿を取り戻すよう復元工事が進められていますが、文化財としての意識が希薄であった時代には城壁の一部が近隣の道路工事で石材として取り出されてしまったため、その復元作業にも困難を極めています。
勝連城跡の入口向かいには、勝連城休憩所があり、駐車場やトイレなどと展示施設が整備されています。(見学無料)
中には勝連城から出土した装飾品や武具、硬貨などを展示。外の入口には城壁のみの最終復元模型もあって、当時の城郭の広大さが伺えます。
また、施設内には城内の建築物を配置した模型も展示されていますが、こちらは当時の建築図面などが残されている訳もなく、基礎の大きさや当時の時代背景、城郭の規模などから推測した想像上の建物模型となっています。
城壁の復元工事はまだまだ続けれていて、最終的な勝連城の雄姿を見られる日が待ち遠しいですね。
勝連城跡からの現在の眺め
勝連城の南西方向には中城湾、東北方向には金武湾と平安座島に向かう海中道路や浜比嘉大橋が眺められます。どちらも太平洋に向かった天然の良港!
ここから歴代の勝連城主たちは、日本や東アジアなどとの海外貿易に想いを馳せていたのですね。
最後の勝連城主!阿麻和利
勝連城の最後の城主となったのは阿麻和利(あまわり)。
北谷間切屋良村(現在の嘉手納町字屋良)の出身で屋良村の按司(あじ・領主)の子とも、その家臣の子とも言われていますが、農民の子との説も。よくわかってないのですね。
阿麻和利(あまわり)は本名ではなく、後に付けられたもの。「あまおり(天から降りるもの)」から来ていると思われます。
幼名は加那(カナー)。幼い頃には身体が弱かったので家の恥と言われ父親に捨てられ、母がこっそりとガマ(洞窟)で育てたと言われています。
成長してからは勝連の地に移り住み、漁業や農業の仕事に勤しみ、信頼を得て9代目勝連城主・茂知附按司(もちづき・あじ)のもとに仕えます。
その後、茂知附按司(もちづき・あじ)の悪政に苦しんでいた民とともにクーデターを起こし、第10代の按司に就きます。
按司となった後は、日本や奄美を中心にアジアとの貿易も強化し、急速に勝連城を反映させていきます。
その急激な繁栄に脅威を抱いた第1尚氏の琉球王府からは脅威と捉えられ、様々な阿麻和利包囲網が気づかれていきます。
琉球の正史「中山世艦」では王府への反逆者
北山、南山を滅ぼし、琉球王国の礎を築いたのは、第一尚氏の第2代琉球国王、尚巴志(しょうはし)とその父で初代琉球国王の尚思紹(しょうししょう)。
尚巴志の時代から既に阿麻和利の出現は脅威であり、ともに北山・南山を滅ぼし統一琉球王国の基礎を築いた、長老・護佐丸(ごさまる)を元の居城・座喜味城から勝連城とは中城湾を挟んだ対岸の中城城に移らせ、阿麻和利に対し睨みを利かせます。
その後、数年のうちにバタバタと3代目~5代目の兄たち国王が無くなり、世襲によって6代目国王に就いた尚泰久(しょうたいきゅう)の時代には王府の体制は盤石ではなく、地方豪族である阿麻和利の出現を不安視していました。
しかし、尚泰久にとって阿麻和利は自らの6代目国王就任の際に力を借りた功労者。恩もあったのです。
だが、阿麻和利は今やイケイケの脅威!
父と共に王国を建国した護佐丸の娘を正室として迎えていた6代目尚泰久は、自らの長女でもあり、護佐丸の孫にあたる百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせ、監視役として二重の防衛ラインを張ります。
ところが6代目尚泰久にとっては、父の恩人・護佐丸(ごさまる)でさえも油断の出来ない相手。父・尚巴志(しょうはし)ほどのカリスマ性もなく体制が揺らぎ始めてきた王府にとっては、阿麻和利も護佐丸も既にどっちも不安材料でしかなかったのです。
そんな時、阿麻和利から悪魔のささやきが。
「護佐丸が謀反を企ててますよ」
ビックリした尚泰久は、中城城へ使いを出し、探りを入れると確かに武器を集め軍事訓練に勤しんでいたとの情報。
国王・尚泰久は、阿麻和利に官軍の名のもとに護佐丸を打つように命じます。
護佐丸はこの時、阿麻和利が反乱を起こした時のために武力を備えていたようで、官軍として阿麻和利が攻めてきた事に、王府からの裏切りと信頼の無さを悔いて抵抗する事なく自害したと伝えられています。
これが「護佐丸・阿麻和利の乱」です。
その後、イケイケの阿麻和利は首里城に攻め込むべく訓練を重ね兵馬を揃えていていましたが、途中に妻であり国王の娘である百度踏揚に感づかれます。
百度踏揚(ももとふみあがり)は付き人の鬼大城と勝連城を脱出し首里へ。気付いた阿麻和利は追っ手を差し向けましたが間に合わず、事情を知った首里王府軍が反撃し追い返します。首里王府軍は、周辺按司を従えて、そのまま勝連城へ突撃します。
勝連城は、この戦で陥落。阿麻和利も討ち取られる事となったのです。
しかし阿麻和利の墓はこの地からは遠い、現在の読谷村にあります。阿麻和利はここで討ち取られたのか、城の裏に今も残る洞穴から逃げ切れたのか、謎は残っています。
北山と南山を滅ぼした琉球統一王国ですが、実際には統一後も最後まで首里に従わなかったこの勝連を滅ぼしたことが、本当の統一だと見る説もあります。
さて、ここまで見ると阿麻和利は王府への反逆者とみられますが、実際には地元では民を救った英雄として語り継がれています。
地元では民衆を救った英雄「肝高の阿麻和利」
阿麻和利が勝連にやって来た頃の勝連の按司は、茂知附按司(もちづき・あじ)
この按司がだらしなく酒に溺れ領民の事など見向きもしない悪政を強いています。
そんな中でもこの地にやってきた阿麻和利は、知恵を出して新たな魚網を発明し人々に分け与えたり、農業を手伝ったりと地域のサポートで信頼を得て、茂知附按司に仕えるまでに近づき、領民と共にクーデターを起こして新たな按司となったのです。
琉球の正史では悪役として書かれている阿麻和利ですが、地元では徳の高い民のために尽くした英雄として語り継がれています。
文献の中にも阿麻和利の行いを讃えているものもいくつか見つかっています。
前述した護佐丸・阿麻和利の乱についても別の説では、阿麻和利からのタレコミが事件のキッカケではなく、単に王府軍が目の上のタンコブである護佐丸と阿麻和利を抹殺しただけなのではないかともいわれています。
確かに琉球国3代目~5代目の兄たち国王達が数年で早々と亡くなり、五男とも七男とも言われる良く分からない尚泰久が6代目の国王に就いたのも不自然な話です。
尚泰久による策略で王国にとって脅威である護佐丸と阿麻和利を消しておきたかっただけなのかも知れませんね。
地元では「肝高の阿麻和利」と伝えられていて、肝高(きむたか)とは「心豊か」「気高い」などを意味しています。
ただの悪名高い反逆者であれば、600年以上も肝高の阿麻和利(気高くて天から降りてきた人)などと伝えられたりはしませんよね。
歴史は、後の征服者の都合によって書き換えられますので、今となってはどちらが正しいのか分からないですね。
中高生たちによって伝承される現代版組踊「肝高の阿麻和利」
さてそんな阿麻和利ですが地元のうるま市では、1999年に子ども達の感動体験と居場所づくり、ふるさと再発見・子どもと大人が参画する地域おこしを目的に、地域の中高生を集めて現代版組踊「肝高の阿麻和利」として活動を続けています。
20年以上も地域の子供たちによって、肝高の阿麻和利が踊り、歌い継がれています。まさに地域の英雄です。
地元のスーパーなどでも、ちょっとイベントが催されれば、この人だかりです。30分間のショートバージョンではありましたが、中高生の演技とは思えないほどシッカリとした見応えのある内容に仕上がっています。
地元の学校やイベント会場、劇場などで公演が行われています。そしてなんと勝連城でも演じられました。
そして阿麻和利は、沖縄から関東(茨城・東京)へ
そして、現代版組踊「肝高の阿麻和利」は沖縄を飛び出して、茨城・東京へ。
今年は、6月に地元のうるま市きむたかホールから始まり、茨城県小美玉市、東京国立大劇場での公演も予定されています。
そして、「肝高の阿麻和利」を更に広めるべく新たなプロジェクトが動き始めます。
大河ドラマ「肝高の阿麻和利」実現なるか!?
そして地元ではNHKの大河ドラマにぜひ「肝高の阿麻和利」をとの声が上がり始めています。
沖縄タイムスの記事より引用
大河ドラマに沖縄の英雄を 世界遺産「勝連城」の城主 本土復帰50年の2022年に
『琉球王国時代、勝連半島を治めていた有力按司で、勝連城最後の城主・阿麻和利を題材としたNHK大河ドラマ制作の実現に向け、沖縄県うるま市内の団体が招致実行委員会を立ち上げる。早ければ4月にも発足し、本土復帰50周年の節目となる2022年の実現を目指す。
NHKの大河ドラマに取り上げられれば阿麻和利の知名度はますますアップする事でしょう。
沖縄の歴史は視聴率が取りづらいと言われていますが、復帰50周年の節目と沖縄ブームの今が最大のチャンスだと思われます。是非ともテレビの中の阿麻和利を見てみたものですね。
勝連城跡へのアクセス
勝連城跡休憩所:沖縄県うるま市勝連南風原3908